オステオパシーの歴史

オステオパシーとは1874年にアメリカ人医師の
A.T.Still(アンドリュー・テイラー・スティル)によって提唱された医学です。

スティル博士は医師でありながら当時流行していた髄膜炎により3人の子供を亡くすという悲劇を経験しました。当時の手厚い看護と医療を受けたにも関わらず助からない人々がいる一方で、看護や医療を受けることもままならない人々が回復していく事実に疑問を抱き、人体に対する独自の研究を始めていきます。「病気とは身体のどこかに生じた不具合に起因しているのではないか」と考え、自然科学をはじめ解剖学、生理学、病理学、そして広範囲の科学を徹底的に学びなおし、人体をあらゆる角度から研究しました。結果、病気の身体には必ずどこかに構造が正常な位置になかったり正常な働きをしていない所がある事に気づきました。そしてそれらを正常に戻すオステオパシーを考案しました。研究を始めて約10年後、1874年に世にオステオパシーを発表しました。
スティル博士は医師でありながら薬は毒であると考え、オステオパシーを行い続けましたが、その行動に当時の医学会はスティル博士を異端とし、スティル博士は強い抵抗に合い、受け入れられず、スティル博士を医学会から追放しました。
それでもスティル博士は自分の信念を貫き通し、全米をこのオステオパシーにより治療して周りました。当時の記録には骨格筋系の症状のみならず伝染病や内臓疾患にも驚くほど効果があったと記されています。
その後最終的に行き着いたのがミズーリ州にあるカークスビルという小さな町でした。
そこには噂を聞きつけ全米から治療を必要とする人々が集まったため
ホテルや食堂もできるまでになり、町が大勢の人々で賑いました。
その功績により、1892年にはカークスビルに最初のオステオパシーの学校が設立され名実共に認められることとなりました。
現在も『A.T.STILL UNIVERSITY』として存在しています。
また、オステオパシーはアメリカでは医学として認められており、
ドクターオブオステオパシー(D.O.)として全ての医療行為が許されています。
今ではアメリカに29校のオステオパシーの医科大学が設立され、ヨーロッパ諸国やロシアやカナダ、オーストラリア等多くの国々においても、オステオパシーの教育や研究が盛んに行われ現在も発展し続けています。
国家資格として認められている国も数多く存在し、多くの国々で広まりを見せています。


オステオパシーの考え方

人間の身体は様々な器官が集まって出来ており、
全体として1つのシステムを構成しています。
オステオパシーでは、身体のそれぞれの器官は単独で働いていると考えるのではなく身体全体を1つのつながったシステムとして捉え、各器官がお互いに協調し合い全体として調和をはかりながら働いていると考えます。物理的外傷(骨折や転倒、事故など)や様々な出来事による心理的外傷、日々の精神的なストレス、生活習慣(食生活や生活環境)により、身体のシステムは影響を受けます。その影響が身体の構造(骨格、臓器、神経、血管など)を捻じらせ圧迫し収縮させていきます。そして身体の働き(神経、血管、リンパの流れなど)が低下又は停滞することによって様々な器官への栄養供給が遮断され、排泄作用も低下し、自らを修復し回復するプロセス(自然治癒力)が妨げられてしまうのです。その結果として病気や痛み等の様々な症状が引き起こされます。そこでオステオパシーでは痛みや症状の原因が必ずしもその部分にあるとは考えず、身体全体を解剖学・生理学の知識に基づいて診察し、痛みや症状を引き起こしている根本的な原因を探し出します。そしてその原因に対して、主に手技によって施術を行います。
根本的な原因を取り除くことにより身体が本来持っている自らを回復する力を引き出し健康な状態へと導きます。

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